透き通る世界と“鬼の目にも涙”の真実
映画『鬼滅の刃 無限城編』を観てきました!
面白かった!!!
そして、魂の奥の“なにか”が揺さぶられた時間でした。
炭治郎のまっすぐな剣。
猗窩座の揺らぐ瞳。
そして、無限城という異空間で交錯した「強さ」と「愛」のあいだにあったもの。
それは、ただの戦いではなかった。
それは、“何のために強くなるのか”という問いだった。
“誰を守りたくて、前を見つづけるのか”という、魂からの叫びだった。
その答えに触れた瞬間、“柱”の意味がわかった気がした。
今回は、映画の感想にとどまらず、チャクラ9と10の視点からこの作品が映し出した「透き通る世界」と、“愛が勝つ”という真実を、言葉にしてみようと思います。
※本記事は『鬼滅の刃 無限城編』の感想と個人的なチャクラ考察です。画像はAI生成のイメージです。
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大知令奈(ひとちゃん)です
このブログでは、“本当のあなた”を思い出すキッカケとなるように、スピリチュアルな視点から
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第1章 無限城で心を揺さぶられた夜

映画館の暗闇の中で、わたしは映画の“世界”に吸い込まれるような感覚で、無限城を観ていた。
激しく交差する音と光、呼吸と斬撃。
でも、その戦いの中にあったのは、ただの“技”の応酬ではなかった。
それぞれの命が、それぞれの記憶を背負って、言葉にならない想いを放っていた。
静かで、でも確かに熱い“魂の衝突”だった。
正直に言うと、
わたしは「鬼に同情はしない」と決めていた。
ストーリーが見えてきた、絶対泣かない!と決めた。
でも──
猗窩座の記憶に見入ったとき、気づいたら涙がこぼれていた。
※いつものパターン( ;∀;) 完全敗北💦
それは、鬼であっても“誰かを守りたかった”という想い。
失望からの復活。失いたくなかった記憶。愛していた人の声。
その記憶に触れたとき、「鬼」という存在の奥に、確かに“人”としての光を感じてしまった。
第2章 炭治郎の言葉に宿る“柱”の意志

「必要なものだけを残す」
「無駄をなくす」
「それを極限まで極める」
炭治郎がそう言ったとき、それは“戦い方”の話ではなく、“生き方”そのものの話だと感じた。
その言葉には、自分という存在の“軸”をどう整えるか、という。
静かで確かな“柱”の在り方が込められていた。
技を増やすことでも、派手に力を誇示することでもなく──
ただ、本当に必要なものだけを活かし、必要ないものを閉じる。
余計な迷いを削ぎ落とし、過剰な力みを手放し、思考のノイズを沈めていく。
そして、透き通る世界を極めていく。
それは、進化ではなく、深化なのかもしれない。
この感覚、知ってる!そう思った。
それはきっと、チャクラ10側からの視点。
光をコントロールするには、わたしという“柱”が必要。
受け取るにも、放つにも、しっかりとした“内なる芯”が要る。
光とは、ふんわりしたものじゃない。
時に激しく、強く、まっすぐに突き刺さる力。
炭治郎が極めていたのは、剣術ではなく、“魂の一点”。
何のために強くなるのか
誰を守りたくて、立ち続けるのか
そして、自分にも問いかけてみた。
わたしの柱は、立っている?
必要なものを残せている?
その問いは、
「チャクラ10のわたし」側からのリーディング。
第3章 チャクラ9=無を超えるということ

無限城のあの空間は、まるで**マトリックスのような“異次元のコード世界”**のようにも感じられた。
どこが上で、どこが下かもわからず、今がいつなのかすら、感覚が消えていく。
そこでは、時間も空間も“固定されない”。
まるで次元が特定できないまま。
無限城のあの底が抜けたような構造。
重力さえどこかあやふやで、音が反響しすぎて静かになるような世界。
時間の流れも、場所の感覚もなくなって、その世界に飲み込まれてしまうような錯覚。
「わたし」という輪郭すら曖昧になる。
悲しみや恐れすら、もう感じない。
なにかを願うことも、拒むこともない。
名前もない。
記憶もない。
役割もない。
それなのに、『ある』という矛盾。違和感。
きっと、多くの人がこの“無”を怖れる。
“わからない”とか“消えてしまいそう”とか、そういう感覚が湧くのは自然だと思う。
でも、ひとたびそこに沈み込んでみると──
それは「消える」ことではなく、すべてを統合する準備が始まる静寂なのだと思う。
その「無」の先に、ある世界。
それは視点が逆転する「チャクラ10のわたし」からの視点。
そして“柱”として立ち上がることを意味すると感じた。
第4章 “壱ノ型”が教えてくれた、本質

戦いの中でこそ、その人の「本質」があらわになることがある。
強さとは、力を持つことじゃない。
強さとは、“何があっても信念を失わない”ということ。
そのことを感じさせてくれたのは、我妻善逸。
彼は「壱ノ型」しか使えなかった。
それがずっと“劣等感”であり、“足りなさ”として描かれていた。
だけど──
彼は、その壱ノ型を極めた。
そして、自ら“漆ノ型(七ノ型)”を生み出した。
たったひとつ、壱ノ型しかできなかった彼が、そのひとつを貫き抜いた結果、“誰も持っていない型”へと昇華させたのだ。
これは、チャクラ1の鍛錬とも精通していて。
何事も基礎が大切ということと繋がる。そして、その基礎にこそ本質が隠されている。
本質を極めたからこそ、チャクラ7が花開き、新しい技が生み出されたのだと感じた。
チャクラ7は自分の為にだけで開花する場所ではない。
善逸のカッコよさをしっかり感じました(*’▽’)
一方で、
鬼になった雷の呼吸の継承者は、弐ノ型〜陸ノ型まですべてを極めた。
でも──
壱ノ型だけは、極められなかった。
技の数や完成度では、もしかしたら彼の方が上だったかもしれない。
けれど、そこには“魂の核”がなかった。
基本の基である「始まりの型」つまり『己』と向き合うことが出来なかったのだと思う。
これはまさに──
「多くをこなす」よりも、「ひとつを貫くこと」にこそ本当の強さが宿るという、魂からのメッセージだったと思う。
めちゃくちゃ核心を突いている!と思った。
わたしにとっての「壱ノ型」はなんだろう?
誰にも見えない場所で、ただひたむきに“ずっと貫いてきた“ことがあるだろうか?
誰かと比べて、足りないように見えても、それでも手放さずに育ててきたそれが、いつか“漆ノ型”として、わたしだけの光を放つのかもしれない。
もう、足りないと思わなくていい。
探し続けるのではなくて、ひとつを信じて、貫いていけばいい。
それがきっと、柱の立て方。
外に探さなくなると、必ずみんなにある”光柱”なんだと思う。
第5章 なぜ闘うのか──強さの本質とは

炭治郎は、ただ剣を振るっていたのではなかった。
斬ることよりも、“その奥にあるものを見失わない”ことに、彼の強さを感じた。
相手がどれほど恐ろしい鬼であっても、その存在の奥に──
**「守りたかった記憶」や「失いたくなかった愛」**があれば、怖さを超える何かがあるのかもしれない。
その姿を見て、わたしは自分に質問をした。
わたしは、
何のために強くなろうとしてきたのか。何と闘ってきたのか。
誰かをねじ伏せるためでも、何かに勝つためでもない。
それは、「ほんとうのわたし」を生きるため。
そして、「ほんとうのわたし」を、見失わないためだった。
強さとは、力を持つことじゃない。
強さとは、“何があっても信念を失わない”ということ。
強くあるということは、
そのための選択を何度でもできる自分でいること。なのかもしれない。
🌸おわりに

映画を観た帰り道、運転しながら思った。
「ああ、やっぱり──最後は、愛が勝つんだ」
その静かな光が、嬉しかった。
そして、わたしなりの“透き通る世界”を追求したいな。と思った。
鬼滅の刃、やっぱり面白い!そして、奥が深い。
もう一度観たいな!!!!!
最後までお読みいただきありがとうございました。
この出逢いが、あなたの記憶を呼び覚まし目覚めのきっかけとなりますように。
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今日のメッセージが、あなたの魂に優しく届きますように。
愛と祈りをこめて──
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