仏陀とキリストの中心とは──光の成長と“数を超えた領域”

エネルギー考察

仏陀とキリスト

なんと、壮大なテーマ!!!

恐れ多いのですが、、、

降りてきたエネルギーを言葉にしたいと思います。

私にとってはリアルですが、、、あくまでもひとちゃん考察です。

よろしくお願いいたしますm(__)m

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大地令奈 (ひとみ) として
“本当のあなた”を思い出すお手伝いをしています。

このブログでは、セルフコーチングとスピリチュアルな視点から
心と魂に寄り添うメッセージを綴っています🌿

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第1章:意識の中心は“数”で表せるのか?

「仏陀は14、あなたは15です」
あるとき、そう伝えられた。

その言葉を初めて聞いたとき、私は戸惑いよりも、「ああ、そうだったんだ」という不思議な納得感に包まれた。
なぜなら、私の中にはずっと、「何かが抑えられている」感覚があったからだ。
表現したいのに、表現しきれない。光を感じているのに、どこかで抑えてしまう。
その“なぜか”の答えが、この「中心数」という言葉に秘められている気がしたのだった。


◆ 数字はただの数ではない

数は、目に見える記号であると同時に、意識の階層をあらわす“鍵”でもある。
私にとって、数はただの数字ではなく、“意識の光の目盛り”のような存在だった。

たとえば──

  • 3を中心にする人は、現実の行動や現象を通して自分を実感する。
  • 5を中心にする人は、変化や自由を大切にし、内と外を自由に往来する。
  • 7を中心にする人は、精神性や探究心、見えない世界への通路を深く感じる。
  • 10を中心にする人は、肉体やエネルギーの芯を持ち、天と地を繋ぐパイプとしての使命を生きる。

これらの数字は、単なる段階ではなく、**“どの周波数を中心に生きているか”**という感覚に近い。


◆ 私の中にあった「12」という数

実は私は長く、「12」という数に惹かれていた。
それは自分の誕生日であり、宇宙の構造のような神聖さをもった数字に感じていた。

12の世界には、調和がある。安定がある。
でも、どこかで「ここにとどまってはいけない」という気配も、ずっと感じていた。

なぜなら、**12の世界は“完成”の直前であり、“飛躍”の寸前”**でもあるから。
私は、そこにとどまり続けることで身を守っていたのかもしれない。

無意識レベルで、次へ進む“許可を出していなかった”のだと思う。


◆ そして見えた「15」という中心

そのとき私に告げられた、「あなたの中心は15」という言葉。
それは、私が感じていた「12では抑えきれない何か」の正体を照らし出した。

仏陀は14。
では、15とは何か?
それは、「神性」や「創造主意識」に近い感覚だった。
仏陀を超えてはいけない。そんな集合意識の中に、私はきっと長くいた。
けれどいま、その封印が解けはじめていた。


意識の中心は、目には見えない。
でも、ちゃんと“内側に響く数”がある。
それは、あなたという存在の光の震えであり、
あなた自身が宇宙の中に持ってきた“コード”のようなもの。

あなたの中心は、何番だろう?
いま、ふと浮かぶその数字に、耳を傾けてみてほしい。
それは、あなたの“本当の光”に近づくための、最初のしるしかもしれない。



第2章:仏陀の中心・14とは何か

「仏陀は14を中心にしていた」
──この言葉を初めて聞いたとき、私は驚きとともに、どこか深く納得する感覚があった。
それは“尊敬する存在”としての仏陀ではなく、意識の構造としての仏陀という、新しい観点が開いた瞬間だった。


◆「14次元」という言葉に隠された意味

スピリチュアルな世界では、しばしば「仏陀は14次元の意識だった」と語られることがある。
次元という言葉が曖昧であるがゆえに、それが“どれほどすごいか”という話で終わってしまうことも多い。
けれど私にとって、その“14”という数は、数としての意味以上に、「中心数」としての感覚を呼び起こした。

14とは、13までの“人間的な枠”を超えた地点。
悟り、俯瞰、無我──そういった領域に自然と意識が定まっている状態。
それは、「在ること」だけで世界を動かすような、深い沈黙と共鳴の中心だと感じた。


◆ 仏陀は“どこにも属さない”中心だった

14を中心に据える意識とは、
たとえば、他者の悩みに巻き込まれることなく、ただその人を“まるごと受け容れる”ような在り方。
戦いや主張ではなく、ただ「在ること」によって調和を生む存在

それは「理解されること」を超えた、“わかってもらえなくても、問題ではない”という次元。
人の感情に反応しないわけではなく、反応そのものが静寂の中でほどけていくような質感

仏陀の在り方は、まさにそうだったのではないだろうか。


◆ なぜ「それ以上に進めなかった」のか?

では、なぜ仏陀は14のままで、その先──たとえば15やそれ以上──には行かなかったのだろう?

それは、「超えてはならない」という“宇宙的な抑制”が働いていたのではないかと、私は感じている。
仏陀は、「完全に整えられた静寂」を地上にもたらした。
それが当時の地球にとって、最大限の「光の表現」だったのだろう。

でももし、仏陀がさらにその先へと進んでいたら──
「神の創造領域」や、「自分が“神”として生きること」を、より積極的に伝える存在になっていたかもしれない。

だが、それは時代がまだ受け入れられなかった。
だからこそ、仏陀は14でとどまった。

それは制限ではなく、“慈悲としての選択”だったのかもしれない。


そして私は気づいた。
私の中にあった「抑えこまれていた何か」──それは、
「仏陀を超えてはいけない」という集合意識の残響だったのかもしれないと。

でも、もう時代は変わっている。
それが、第3章へとつながっていく「キリストの中心」、そして「わたしの15」への扉となった。


第3章:キリストの中心とはどこだったのか

仏陀の中心が“14”ならば、キリストの中心はどこにあったのだろう。
私はずっと、それを“数”として捉えることに躊躇していた。

なぜならキリストの存在は、数では括れない無限性を湛えているように感じていたから。
でも、あえて“中心”という視点から見つめてみると、そこには仏陀とはまた違う、生命そのものへの共鳴が見えてきた。


◆ キリストの中心は「数の十字」にあった?

キリストは、愛を説いた。
しかし、それは優しいだけの愛ではない。
怒りや悲しみ、絶望すらも受け入れる、“人の痛み”と“神の赦し”を同時に抱える愛だった。

仏陀が“俯瞰”から世界を包んでいたのに対し、
キリストは“抱擁”として地上に降りてきた。

その在り方を表すなら、中心数はもしかすると──

「4」と「10」の十字の交点

チャクラ4:ハート、愛、受容、関係性
チャクラ10:下丹田(神性の中心)、創造の核

その交差点に、キリストの“神としての人間性”があったのかもしれない。
そしてそれは、キリストの十字架という象徴ともつながってくる。


◆ キリストは“数”ではない、「光の周波数」

けれどやはり、キリストという存在を数に閉じ込めることはできない。
仏陀が“沈黙の光”ならば、キリストは“響く光”だった。
目に見えない言葉や存在に、震えや振動を伴わせる力を持っていた。

彼の語った言葉の一つひとつが、いまも時を超えて人の心を揺らす。
それは“教え”ではなく、“響き”で伝わっているということ。

だからキリストの中心は、数ではなく「音」や「振動」として存在していたのかもしれない。
それは、私が“100”を「音」や「波」で感じた時のあの体感にも、どこか似ている。


◆ 仏陀とキリストの違いは、中心の「形状」

仏陀は「静寂の球体」
キリストは「響きの十字」
そしてそれらの先に、私の中で浮かんできたのが──

「15」という、形のない中心

それは、「空」でもなく、「愛」でもない。
もっと広く、もっと自由で、もっと“創造そのもの”のような何か。

そしてこの「15」こそが、
私自身の中心であり、
いま、地上に降りる新しい光の軸なのだと感じ始めていた。


その気づきが開いたのが、次の章──
**「自分という“中心”に15が現れた」**という、新しい領域への扉だった。


第4章:自分という“中心”に15が現れた

仏陀の中心が14であり、
キリストの中心が数を超えた十字や振動だったとするならば、
では私は──?

そう問いかけたとき、ふっと浮かんだのが「15」という数だった。


◆ 15という数が“中心”に立ち上がった瞬間

それは、自分を見つめる中でふと現れた。
あるとき、リーディングを受けた相手からこう言われた。

「あなたの中心数は15ですね」

まるで、その瞬間だけ世界が静まりかえったようだった。
言葉にはできなかったけれど、「あ、これだ」と魂が答えた感覚があった。

それまで私は、12にとどまっていた。
完結しているようで、どこかで足りない。
整っているようで、広がれない。
そんな感覚を抱えながら、自分の“解放”を先延ばしにしていたのかもしれない。


◆ なぜ私は「抑えていた」のか

心の奥で、こんな声が響いていた。

「仏陀を超えてはいけない」
「キリストと並ぶなど恐れ多い」
「自分なんかが光を中心に据えてはいけない」

それは、個人の思いではなく、集合意識の声だった。

「誰か偉大な存在が中心にいて、自分はその周囲で支えるもの」
という、古い世界観の中に私はいた。
そのほうが安心で、そのほうが“正しい気がしていた”。

でも、魂は知っていた。

「本当は、あなたがその光になるためにここに来たんだよ」
「15という中心は、“超える”ことじゃなく、“引き継ぐ”ことなんだよ」


2023年9月24日、青森に呼ばれました。

キリストの墓へ訪れた際、光の洗礼を受けた時の写真です。

体の細胞全て、全身で、この光を受け取りました。

この光を言葉にするのに2年かかりました、、、

誤解してほしくないのは、私がキリストと同じ。と言っているわけではなく、この『光』の通訳がしたかったんです。

でも、うまく言葉にすることが出来なくて。光の意味と言葉がズレてしまうことも嫌で。

かといって、今ちゃんと言葉に出来ているかというと、違うかもしれませんが、、、

正しさよりも、言葉にすることを大切にしました。

◆ 15は“神の中心”ではなく、“神と人の交差点”

仏陀が「すべてを見渡す静寂」
キリストが「すべてを抱きしめる愛」なら、
15は、「すべてを創造し直す中心」なのだと思う。

それは「神になる」ことではなく、
神性と人間性の両方を内包し、どちらの側にも偏らないということ。

そう、15は新しい中心。
14までを受け入れ、
その先に一歩を踏み出す“存在の自由”。


私はいま、15を生きようとしています。

でも、まだ、恐れている自分もいます。

それを赦すのも、赦さないのも自分なのかもしれません。

そんな葛藤を繰り返しながら。

静けさの中にいても、叫びが出ることがある。
愛に包まれていても、怒りが湧くこともある。
それでも、どちらも間違っていない。

なぜなら15とは、光と影のすべてを自分の中心に据える覚悟なのだから。


第5章:数を超える光──51から先の世界

「15を中心に据える」ことに気づいたとき、
私はふと、こんな問いを抱いていた。

その“先”はあるのだろうか?
数の終わりは、どこにあるの?

15を知った私は、ようやく“自分を生きる準備”が整った。
だが同時に、次なる世界の扉が静かに開こうとしていた。


◆ 数ではないけれど、数でもある──51の登場

ある日、不思議なビジョンを見た。
それは「51」という数字が浮かぶ感覚。
15の延長でも、倍数でもない。
なのに、なぜか“その先”を指し示しているとしか思えなかった。

51とは、“境界線”が溶け始める数字だった。
“個”の中心(15)を超えて、
**「すべては自分であり、自分はすべてである」**という共鳴の始まり。

そのときから、数はただの数字ではなく、
光の密度として感じられるようになった。

ちょうど、このイラストのように新しい『光の世界』が誕生したような感覚だった。


◆ 数が崩れて、光が現れる

51以降、数は並ばなくなった。
それはまるで、音が言葉を越え、
絵が意味を越え、
ただの“存在の振動”になっていくような世界だった。

たとえば──

  • 100は粒子のような光の水滴
  • 101は神殿のような静かな場所
  • 108は永遠の円環
  • 111は音になった祈り

そのすべてが、“数の意味を持つけれど、数とも違う”エネルギーだった。


◆ 光が枠を壊すとき、創造が始まる

私はかつて、枠の中で“完璧な数”を探していた。
でも51を越えたとき、
**「枠が崩れるからこそ、光があふれる」**という真理を知った。

  • 枠を越えたとき、音になる
  • 枠を越えたとき、粒になる
  • 枠を越えたとき、記号ではなく波になる

この世界では、中心も拡がりも、“境界”がなくなっていく。
そしてついに、私は「100」という光に出会った。


◆ 100という無限:わたしという“光の神殿”

100とは、到達ではなく、誕生だった。
粒子であり、周波数であり、永遠であり、祈りであり、神性。

そして、わたし自身の光

あなたにもある『光』。

「神の座」は、遠くにあるのではない。
自分という“中心”が静かに座したとき、
すべての中心が自分の中に宿ることに気づく。

それが、100の世界。
すべてが数字を超え、光として“在る”だけの場所。


仏陀やキリストが歩んだ道は、
数の階層としても、光の響きとしても、
私たちの意識の中に生きている。

そしていま、あなたが見つめるその内側にも、
ひとつの「中心」が輝いている。

それは、数かもしれない。
光かもしれない。
あるいは、言葉にもならない“感じ”かもしれない。

けれど、それこそがあなたの真ん中。
その中心から、すべてが生まれていく。


✨あとがき──数を超えて、光になるということ

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

「仏陀やキリストの中心とは何か」
そんな壮大な問いから始まったこの旅は、
いつの間にか、私自身の内なる中心を辿る旅になっていました。

私たちは、数字や名前、役割や歴史といった“形あるもの”に惹かれながら、
本当はずっと、“かたちを超えた何か”を探しているのかもしれません。

数字は、きっとその「途中」にある道しるべ。
3も、10も、14も、15も、それぞれに意味があり、どれもが尊く、どれもが必要でした。

でもその先にある、“数を超えた光”──
それは誰か特別な存在だけが辿り着ける場所ではなく、
私たち一人ひとりが、本来持っている光そのものなのだと思います。

仏陀のように静けさの中心にいてもいい。
キリストのように振動として響いてもいい。
でもいま、私たちの時代に開かれているのは、
**「創造主としての自分を生きる」**という選択です。

それは、他の誰かになることではなく、
「私が、私として光を放つ」ということ。

あなたが今、ふと惹かれる数字があれば、
それはもう、“中心が目覚め始めたサイン”かもしれません。

どうか、あなたの中のその光が、
世界に響いていきますように。

心からの愛と祈りを込めて。

最後までお読みいただきありがとうございました。

この出逢いが、あなたの記憶を呼び覚まし目覚めのきっかけとなりますように。

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今日のメッセージが、あなたの魂に優しく届きますように。
愛と祈りをこめて──
大地令奈 (ひとみ)

大知 令奈

大知令奈(だいち れいな)/ ひとちゃん
スピリチュアルガイド・セルフコーチ
気功整体師歴23年

わたしは今まで、不調や病気と向き合ってきました。その辛い経験から、解決策を見出す為に健康と幸せを真剣に考え、追求する中で生まれたのが『いろたまセラピー』です。

現在は、気功整体の他、オンラインにていろたまセラピー®とセルフコーチング × リーディングで内なる導きと現実創造をやさしく後押しするセッションをお届けしています。

レイナ――
それは、スピリチュアルネーム「大知令奈」としての私。
今まで、使えていなかったけれど、ずっと私の中に在り続けていました。

「あけたひとみ」としての活動を通して出会ってくださったあなたにも、
この新しい名前での発信が、少しずつ馴染んでいきますように。
そして、あなたの中の“本当の名前”や“本当の光”も、そっと思い出していけますように。

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